本学園は、大正15年に創設者「坂本貢(さかもとみつぎ)」の“東洋医学の灯火を消さない”という強い想いにより設立が実現した学校である。坂本貢は大正8年に漢学専門塾師範科卒業後、医学を修得すべく上京したが、自らの病が原因で郷里に帰り療養することになった。この時、近代医学の限界を悟り、東洋医学、特に鍼灸医学の重要性に目覚めた。鍼灸医学が正式に日本に伝来したのは6世紀とされているが、少なくともこの時期から江戸時代までの千数百年の間は、我が国の正当な医学は 漢方と鍼灸であり、これらが国民の保健を担ってきた。

しかし、明治時代に入り、近代化の波とともに西洋医学が流入し、大宝元年(701年)に制定された大宝律令の「医疾令(いしつりょう)」以来脈々と受け継がれてきた鍼灸医学は排斥の流れを受け、衰微の一途を辿ったが、その一方でこうした社会的背景が呉竹学園創設の原動力にもなった。創設者は、東洋医学の体系的な教育機関が皆無の状況の中で、多くの医師の指導を受けながら臨床能力を高め、自ら教科書・教材作りに取り組みながら後進の指導にあたった。さらには、経験医学的鍼灸医学を西洋医学に負けないエビデンスを示す必要性を感じ、「東洋医学研究所」を設立し、伝統医療の研究に注力するとともに、昭和17年には日本鍼灸師会の会長に就任し、鍼灸業界の発展に尽力した。

同時に、専門教育を行う当時の各種学校の社会的位置づけ、教職員の資質向上をいち早く提唱し、他分野の教育関係者と共に教育改善運動を展開した。昭和24年には東京都各種学校協会を設立し、昭和36年には社団化、社団法人東京都私立各種学校協会の初代会長となった。この活動は、後の学校教育法の改正として専修学校法の成立につながり、全国専修学校各種学校総連合会の設立という結実を得た。

創設者のこうした一連の教育研究活動は、“伝統医療の復興と専門学校教育の発展”を目指した結果であり、本学園の教育活動の礎となって今に受け継がれている。さらに、伝統医療を次の時代へと継承し、以て国民医療に寄与するため、「伝統的医療技術の伝承と普及のため、東洋医学教育の確立と学術の振興を以て国民医療に資する」ことを本学園の建学の理念としている。

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